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あべこべ


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人びとは愛されるために創造された。

物は使われるために創造された。

世界が混乱している理由は、物が愛されて人びとが使われているからだ。




気づき


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無意識を意識化するまで、それがあなたの人生を導くことになり、あなたはそれを運命と呼ぶでしょう

ー カール・グスタフ・ユング




無意識を意識化することを「気づき」という。

私たちは「気づき」によって「運命」から解放されていく。

タマネギの皮を剥いていくように。

呪いの感染

東京では都知事の舛添要一氏が辞職に追い込まれ、新たな都知事選が始まっているらしい。

ニュースを見ていると、なんか嫌な感じがする。

呪いが充満しているような感じだ。





以下、内田樹著 『邪悪なものの鎮め方』(文春文庫)より。


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「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」である。

さしあたり、自分には利益はない。

でも、「呪う人」は他人が「不当に占有している利益を失う」ことを自分の得点にカウントする。





私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。

これはひとつには「偏差値教育」の効果であるとも言える。

偏差値というのは、ご存知の通り、同学齢集団の中のどこに位置するかの指標であり、絶対学力とは何の関係もない。

自分の偏差値を上げるためには二つの方法がある。

自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるか、である。

そして、ほとんどの人は後者を選択する。

その結果、私たちの社会では、偏差値競争が激化するのに相関して、子どもたちの学力が低下するという不可解な現象が起きている。





競争が同一集団内だけで行われるのであれば、自分の学力を高めることと、他人の学力を下げることは、意味は同じである。

そして、他人の学力を下げる方がはるかに費用対効果が高い。

だから、子どもたちが自分の学力を上げるための時間とエネルギーをもっぱら級友たちの学習意欲を損なうことに振り向けるのは判断としてはきわめて合理的なのである。

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政治家や官僚たちが「他人の能力を引き下げること」によって今日の地位を得てきたのだとすれば、果たして彼らから「人々の能力を高める方法」について良い案が出てくるだろうか。

最近、いろんな面で日本人全体の能力が引き下げられているのではないかと思うのだが、それは気のせいだろうか。

集団の中で「呪う人」が有力な立場にいる場合、そのメンバーの大多数に「呪い」のメンタリティが感染してしまうように思う。

なるべく「呪い」の集団とは距離を置きたい。

貴重な時間とエネルギーを、もっとおもしろいことに使いたいから。


現実の問題



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人それぞれに異なるバックグラウンドがあって、物事の見え方も違ってくる。

同じ物事でも、立ち位置によって全く違うものに見えたりするものだ。

「誰が正しいか」を争うよりも、「何が正しいか」をいろんな観点から探究するほうが有益ではないだろうか。

ほとんどの場合、唯一絶対の「正しい答え」があるわけではないと思う。

現実(リアリティ)というのは、実に多面的であり、多層的なものである。

人間という存在も、実に多面的であり、多層的なものなのだ。



てるてる坊主


地元の商店街で “てるてる坊主コンテスト” があるというので出品してみることにした。

私はMr. Beanが大好きなもので・・・



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本来、てるてる坊主というのは呪術である。

軒下にてるてる坊主を吊るすことによって雨が止んで晴れてくる。

はたして、そんなことがあり得るだろうか。

現実とは何か、私たちが感じるリアリティーとは何なのか。

私たちは世界を、自分自身を、どう認識しているのか。

そういうことを探求していくと、呪術にも大いに意味があると思えてくる。