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依存の分散


最近、これまで接点のなかった人たちと仕事する機会が増えたような気がする。

考え方や価値観の違いから違和感を覚えることもあるのだが、それはそれで良い経験をさせてもらっている。

そんな中で、とりわけ教育についてはいろいろ考えさせられる。


なぜ教育は大事なのか。

人はなぜ勉強するのか。


競争社会で勝ち残るために良い教育が必要なのだろうか?

ライバルを打ち負かし自己利益を高めるために勉強するのだろうか?




自立することが大事だというけれど、人は誰かに依存せずには生きていけない。(※仙人は除く)

心理学的には、自立と依存とは反対概念ではないらしい。

自立している人というのは、依存先を多方面に分散しているものなのだ。

依存先を限定すればするほど自立から遠ざかり依存症的になってしまっている。

依存症的になると、孤立するリスクが高まるせいか、不安や恐れが強くなっている。


自分は日常的にどれだけ多くの人びとに依存させてもらっているかを自覚しておきたいものだ。

その自覚なしに自立というのはあり得ないだろう。




そういえば、最近観た「君の名は。」という映画は非常に良かった。

涙がぽろぽろ流れてきた。



太地の大地


先日、ジオパークガイドの方たちに案内していただいてクジラの町・太地町を散策した。

太地町の地質や地形と古式捕鯨との深い関わりが興味深い。

当たり前のことだけど、大地というのは私たち人間社会・自然界の礎である。




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ガイア 〜 地母神


いま自分の目の前にある岩石を眺めながら、何十万年というタイムスケールで形づくられていった熊野の大地を想う。
→ 南紀熊野ジオパーク



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熊野で御神体として人びとから崇められている岩石のほとんどは火成岩や火砕岩である。




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奇跡というのは、自然なことが最も自然なかたちで作用することをゆるされた時に起こるものなのかもしれない。

ヌミノーゼ体験は聖なるものにふれたときに起こる。





熊野籠り


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考えてみると、この二年間、私は熊野から外へ出たことがない。

熊野に引き籠っているのだ。

田舎暮らしをしていると身体の外への感覚がひらいてくる。

先日は熊野の山奥に住む武道家のもとで修行させてもらった。

こんな辺鄙な所に、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡、沖縄などの遠方から十数名の方々が集っていた。

彼らと共に日常では考えられない濃密な時間を過ごした。

武道に限らず、私たちの人生のすべて関係性のなかで生起している。

自分と周囲との関係性をいかに良くしていくか。

武道の本質はそういうところにあるということを垣間見た。





普通であること、自然であること


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人は「普通にしよう」「普通になろう」と頑張って無理をして病んでいるのではあるまいか。

私たちにとって本当に大切なことは、普通であることよりも、自然であることではないのだろうか。

人はノーマルであることに苦しみ、ナチュラルであることに癒されている。

人間社会に必要なノーム(規範・基準・標準)とは何か、そしてネイチャー(自然)とは何なのか、よく考えてみたい。