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かみひとえ


寒い夜道を散歩してきた。

星がきれいだった。

星空に向き合っていると、いろんなイメージが浮かんでくる。




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異なる次元を見ることができて、この次元に応用できない人達は、クレイジーといわれます。

異なる次元を感じることができて、この次元に応用できる人達は、天才といわれます。





天才とクレイジーの違いは、前者は人とのコミュニケーションのしかたを知っていて、後者は知らないということです。

前者は統合された立場から物事を理解していて、後者は分離した立場からしかものを見ることができないのです。


〜 バシャール 〜


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消費者体質


医療・介護・教育などの分野で専門家にお世話になる場合、たいていお金を払ってサービスを受けることになる。

そこで専門家と良好な関係を築いてうまくお世話になれる人がいれば、そうでない人もいる。

うまくお世話になるためにはどうすればいいのだろうか。



資本主義経済社会において、私たちはすっかり消費者体質になってしまっていると思う。

しかしながら、医療・介護・教育などの分野で消費者として振る舞うのは決して賢明なこととは言えない。




人が精神的・経済的に自立するのは大事なことだろう。

誰かにべったり依存してしまうのはいかがなものかと思う。

かと言って、人に世話になることを嫌って孤立するのもどうかと思う。

人が「自立する」とはどういうことなのか、日頃からよく考えておきたい。





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現実の重層性


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私たち一人ひとりが知覚する現実(リアリティ)は必ずしも同じではない。

だから「私の世界」と「あなたの世界」は違うはずである。


今ここにある現実というのは、チューニングする周波数によってラジオから全然違う世界が現れるのに似ている。

今この空間にはさまざまな周波数の電波が届いているはずだけれど、ラジオが共鳴する周波数の音声だけを私は聞いている。


科学的世界観と神話的世界観では、その “周波数” がまったく異なっている。

どちらが良い・悪いということではなく、世界の見方が異なっているということである。

神話の世界を近代科学の方法論で分析してしまうと、その価値が台無しではないか。


同様に、西洋医学(現代医学)と東洋医学では、身体観が大きく異なる。

東洋医学を現代医学の延長で捉えようとすると、その価値が損なわれてしまう。



重たい頭の位置について


週に一回、小学四年生の子どもたちの算数・国語の勉強相手をしている。

先日は国語の問題で「頭が上がらない」という慣用句が出てきて、いろいろ説明したのだが分かってもらえなかった。

小学四年生、10歳という年齢では、誰かに対して「頭が上がらない」とか「頭が下がる」とかいう気持ちになったことなどないかもしれない。


考えてみると、日本の文化のなかでは厳格な上下関係というのがあって、大人になるとそれが姿勢に影響して肩こりなどに悩まされている人も多いのではないかと思う。

ペコペコとお辞儀して、5〜6キロの重さのある頭を一日に何回上げ下げしているだろうか。

僧帽筋とか、斜角筋とか、緊張して強張ってくるのも無理はない。

そういう意味では、「頭が上がらない」ということを理解できない小学生は健全なのかもしれない。




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陽が昇るとき


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めずらしく早起きしたので日の出を見ようと大浜へ行った。

けっこう寒い。

釣り人や散歩する人たちがいる。

薄暗い浜辺がゆっくりと静かに明るくなってくる。

陰から陽へ移り変わってゆくときの美しさだ。






依存の分散


最近、これまで接点のなかった人たちと仕事する機会が増えたような気がする。

考え方や価値観の違いから違和感を覚えることもあるのだが、それはそれで良い経験をさせてもらっている。

そんな中で、とりわけ教育についてはいろいろ考えさせられる。


なぜ教育は大事なのか。

人はなぜ勉強するのか。


競争社会で勝ち残るために良い教育が必要なのだろうか?

ライバルを打ち負かし自己利益を高めるために勉強するのだろうか?




自立することが大事だというけれど、人は誰かに依存せずには生きていけない。(※仙人は除く)

心理学的には、自立と依存とは反対概念ではないらしい。

自立している人というのは、依存先を多方面に分散しているものなのだ。

依存先を限定すればするほど自立から遠ざかり依存症的になってしまっている。

依存症的になると、孤立するリスクが高まるせいか、不安や恐れが強くなっている。


自分は日常的にどれだけ多くの人びとに依存させてもらっているかを自覚しておきたいものだ。

その自覚なしに自立というのはあり得ないだろう。




そういえば、最近観た「君の名は。」という映画は非常に良かった。

涙がぽろぽろ流れてきた。



太地の大地


先日、ジオパークガイドの方たちに案内していただいてクジラの町・太地町を散策した。

太地町の地質や地形と古式捕鯨との深い関わりが興味深い。

当たり前のことだけど、大地というのは私たち人間社会・自然界の礎である。




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ガイア 〜 地母神


いま自分の目の前にある岩石を眺めながら、何十万年というタイムスケールで形づくられていった熊野の大地を想う。
→ 南紀熊野ジオパーク



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熊野で御神体として人びとから崇められている岩石のほとんどは火成岩や火砕岩である。




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奇跡というのは、自然なことが最も自然なかたちで作用することをゆるされた時に起こるものなのかもしれない。

ヌミノーゼ体験は聖なるものにふれたときに起こる。





熊野籠り


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考えてみると、この二年間、私は熊野から外へ出たことがない。

熊野に引き籠っているのだ。

田舎暮らしをしていると身体の外への感覚がひらいてくる。

先日は熊野の山奥に住む武道家のもとで修行させてもらった。

こんな辺鄙な所に、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡、沖縄などの遠方から十数名の方々が集っていた。

彼らと共に日常では考えられない濃密な時間を過ごした。

武道に限らず、私たちの人生のすべて関係性のなかで生起している。

自分と周囲との関係性をいかに良くしていくか。

武道の本質はそういうところにあるということを垣間見た。





普通であること、自然であること


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人は「普通にしよう」「普通になろう」と頑張って無理をして病んでいるのではあるまいか。

私たちにとって本当に大切なことは、普通であることよりも、自然であることではないのだろうか。

人はノーマルであることに苦しみ、ナチュラルであることに癒されている。

人間社会に必要なノーム(規範・基準・標準)とは何か、そしてネイチャー(自然)とは何なのか、よく考えてみたい。