人こそ人の鏡

先日、ある会合で、私は隣に座った人に少々うんざりした。

場の空気が読めない鈍感さ、自惚れの強さ、他人を見下すような物言い、共感能力の無さ、“自分は知らない”ということを知らない傲慢さ……

ああ、嫌だなあ、大人しくしてくれないかなあ、と思いながら耐え忍んだ。

しかし、「人こそ人の鏡」なのだと思う。

人と接していて、自分の中で嫌な感情が湧いてくるとき、その嫌な要素は自分の中にも必ずある。

他人の持つ嫌な要素が、自分の中にある同様の要素と感応しているということだ。

「人のふり見て我がふり直せ」という諺もある。

楽しい愉快な人とだけ接していられたらハッピーだけど、たまには嫌な人と接することも必要なんだなあと思う。

ぬるま湯的な居心地の良さに浸ってばかりいると、だんだん自分の欠点にも気づかなくなってくる。


嗚呼、今日も苦くてコクのある珈琲が旨い!


そういえば、先日ブログで紹介した合気道十段の引土先生は、動画の中でこう仰っていた。

「相手を見てはいけない」

「相手は敵ではない。自分の魂を磨くところの砥石だ」




視覚に頼りすぎてはいけない

十数年前、合気道の一日体験をさせてもらったことがある。

あのとき熊野塾道場の引土道雄先生(※参照)にちらっとお目にかかった。

その引土先生が海外で合気道を指導している動画をYouTubeで見つけた。


絶対に相手(パートナー)を見てはいけない。

相手を見ていると、相手を意識することになり、相手に心をとられてしまうからだ、というお話。





 ☆


私たちは日常的に視覚を中心に行動しがちだ。

たとえば、少し離れた所にある物を取ろうとするときのことを考えてみよう。

取りたい物を目で見て、一目散にそれに向かっていく。

そのとき自分の体を動かす感覚や、足の裏が床に着く感覚などには、ほとんど注意を向けていない。

だから家具に足をぶつけたり、頭をぶつけたりすることになる。

視覚が対象にまっ先に到達してしまい、到達するまでのプロセスがおろそかにされているのだ。

外の物事に気をとられて、内の感覚への意識が薄れているとも言える。


目標への到達も大事だけれど、そのプロセスをもっと大切にする必要性を感じる。

そのために、「みる」よりも、「きく」ということが大切ではないかと思ったりする。

太極拳とか、ボディワークなどでは、動作をゆっくりと行うことが多い。

それはプロセスに注意を向けるためなのだ。

「今、ここ」にある現実を大切にするということでもある。


正義感が強いということ

「正義感が強い」というのは好ましいことなのだろうか。

正義感の強い人ほど「ゆるせない」という気持ちになりやすい。

善悪という価値判断をもって人を裁き、不幸や苦痛を引き寄せているように思う。

戦争だって、いつも正義の名のもとに行われるではないか。


老子は次のように語る。


 *  *  *  *  *

 
すぐれた真実の「道(タオ)」が衰えて、そこで仁愛と正義を徳として強調することが始まった。

人の知恵と賢しらがあらわれて、そこで互いに騙し合うひどい偽りごとが起こった。

身内の家族が不和になって、そこで子供の孝行と親の慈愛が徳として強調されるようになった。

国家がひどく乱れて、そこで忠義な臣下というものがあらわれた。

 <老子 『道徳経』 第18章より>


 *  *  *  *  *



正義や道徳などよりも大切なのが「道(タオ)」である。

老子は、人間の知識と欲望が作りあげた文化や文明に懐疑を抱いている。

無知無欲であれ、無為であれ、自然に帰って本来の自己を発見せよ、と説く。

老子の思想(タオイズム)は、「頑張って、努力して、成功を勝ち取れ!」といった価値観とはほど遠い。

「ゆるす」とか「ゆるむ」ということに通じる優れた思想だと私は思う。

なるべく自然体で生きてゆきたいものだ。


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好き嫌いを超えて

何かを嫌いになる場合、それは自分の元気を削いでしまうものだと思う。

食べ物でも、人間でも、娯楽でも、それが強烈に不快であれば嫌いになる。

ちょっとした不快感であっても、頻繁にくり返していると嫌になってくる。

嫌な刺激に接し続けていると、だんだん元気がなくなってくるからだ。



私たちは元気が出てくるような刺激を好む。

美味しい食べ物、愉快な人間、おもしろい娯楽が好きになる。


ある鍼灸師さんが、こう言っていた。

「好きなもので体を壊してる人って多いよね」


好きなものというのは、自分に元気を与えてくれるものではなかったか?


私たちは、好きなものに対して、無節制かつ過度になりやすい。

食べすぎたり、飲みすぎたり、やりすぎたり……

好きなもの、快楽を与えてくれるものが、必ずしも生命力を活性化するとは限らないのだ。



大切なのは、好き嫌いを超えて、常に体の声・心の声を聴くことだと思う。

それは身体感覚を利かせることでもある。

ただ真摯に「きく」だけで本当に効くのだから不思議な感じがする。




苦々しい体験

最近、「ゆるす」ということについて考えさせられることが多い。

このブログにも何度か書いたような気がする。

恨みや憎しみをもって過去に囚われることは、自分の生命力を消耗することに繋がりやすい。

ただし、好き嫌いの感情をもって現在に生きることは、必ずしも悪いことではないと思う。

いま目の前にあるものを嫌いだから拒絶するということは、自分の身を守るために必要なことかもしれない。

嫌いなものを、かりそめに拒絶することは全然悪くないと思うのだ。

時間が経つと、あんなに嫌いだったものが、それほど気にならなくなったり、逆に好きになっていたりすることもある。


コーヒー好きな大人は多いけれど、苦いコーヒーを好む子どもは滅多にいない。

いつから私はコーヒーをブラックで飲むようになったのか、よく思い出せない。

ひょっとすると、子どもから大人への移行の時期と重なるのかもしれない。

日本で行われる成人式は、本来の通過儀礼(イニシエーション)としての役割を果たしてはいない。

いつやってくるかわからない本当の“通過儀礼”は、苦々しい体験として一人ひとりに重くのしかかってくるものとなるだろう。

そこでは象徴的に「死」と「再生」を体験することになる。

“通過儀礼”において、「ゆるす」ということは「再生」に繋がる大事なプロセスではないかと思ったりする。



アメリカの精神医学者が書いた『ゆるすということ』という本を買った。

まだまだ私は考える。


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